「風通しのよい市民の市政をつくる」福嶋浩彦氏
- 広報部
- 2023年1月27日
- 読了時間: 25分
更新日:2023年2月19日
昨年の10月2日に開催された「つくろう風通しのよい福岡市」シンポジウムにて、元我孫子市長、福嶋浩彦さんに「風通しのよい市民の市政をつくる」というテーマで講演していただきました。講演の内容の文字起こしいたしましたので、ぜひ、じっくり読んでみてください。
◆なお、当日の動画はYoutubeにアップされています。動画についてはシンポジウム開催時に出演者の皆様のご了承をいただいてます。(1の途中から2に収録されています):
どうも皆さんこんにちは、ご紹介いただきました福嶋です。
まずですね。公共って言葉がありますよね。パブリック。
パブリック、公共って何だっていうと、要するに社会のことなんです。
で、今の社会は、市民の社会ですよね。市民が主権者なんですから。市民が主人公なんですから。市民の社会なんです。
なんでこんなことを最初に言うかっていうと、国も自治体も、行政職員の話を聞いていると、ときどき「公共の役割は~」って言うんですけれども、「社会の役割は」という意味で言っているのかと思ったら、「役所の役割は」「行政の役割は」っていう意味で「公共の役割は」って言っているんですよ。
役所・行政は、ガバメントですよね。
パブリックとガバメントは全然違うのに、ガバメントが「我こそは公共」って言っているんです。これ、とんでもない話ですよ。
だから、もう1回確認しておきたいのは、「社会・公共」というのは、「市民の社会」「市民の公共」だということです。役人の公共とか、政治家の公共なんかあったら、たまりません。このことをきちんと私たちは、まず踏まえておく必要があると思います。
じゃ、首長・行政・議会というのはなんなのか?というと、市民が、市民の公共をつくっていく、市民の社会をつくっていくための「道具」ですよ。「道具」でしかないんです、首長や行政・議会っていうのは。
ただし、「いい道具」でなければいけません。「いい道具」であることは、とっても大事です。
で、「いい道具」になる大前提は、ちゃんと市民、主権者の意思で動く道具になる、ということなんです。
じゃ、どうやったら、首長や行政や議会は市民の意思で動くのか? 市民の立場からすると、どうやって動かすのか。これを考えたとき、まずは、選挙ですよね。選挙でちゃんと首長を選ぶ、議員を選ぶということが、まず誰もが考える第一歩だと思います。
その選挙も、いい加減な選挙だったり、あやふやな公約の選挙だったりじゃ困るので、「マニフェスト選挙」というのが言われたけれども、最近、なんかマニフェストが死語になってきてないか、と思うんです。ただ、今日の主題じゃないので、これは置いておきます。選挙っていうものがありますよねってことだけお話ししときます。
それから、「住民投票」で市民が直接決める。大事なことは市民が直接決める。これも地方自治の根本だとわたしは思っています。
住民投票って、なんかね、市民参加のひとつという捉え方を、むしろ一般的にはしているのかもしれませんが、住民投票は「市民参加」ではありません。「市民決定」なんですよね。
市民が決める。法律に基づく住民投票は、もうその結果が自治体の決定になります。
それから条例で定めている住民投票は、ちょっとワンクッション置きますけども、住民投票の結果に基づいて、首長や議会が決める。住民投票を尊重して首長や議会が決める、というワンクッションは置きますけれども、事実上、市民が決めていく仕組みだと思っています。
首長や議会の意思が、主権者である市民全体の意思とずれているんじゃないか?って、市民が、主権者が、思ったときには、住民投票を請求して住民投票をやって、本当にずれているのかどうか、投票によって確認をして、ずれていたら首長や議会の意思を是正する、そういう大切な道具だと思うんです。
そのためには、住民投票をやるかどうかの決定権は、市民が持たないといけないんですよ。
是正される側の議会や首長が、住民投票をやるかどうかの決定権をもったら困るんです。
だけど普通の住民投票って、何か問題が起こったときに、今の議会がおかしいとか、首長おかしいっていって、住民投票を1/50の有権者の連署で請求する。それを議会が不採択したら、住民投票できないということになりますよね。
それは、こまる。
住民投票をやるかどうかの決定権は市民の側がもつ必要がある、と考え、我孫子市では「常設型住民投票条例」を制定しました。「実施必至型住民投票条例」といいますけれども、一定数の市民が連署で請求をしたら、市長がどんなに「そんな住民投票は必要ない」、議会が「そんな住民投票なんかけしからん!」と思っても、住民投票を実施しなければいけない、という条例です。
問題が起こったときに住民投票を請求するんじゃなくて、あらかじめその制度をつくっておいて、市民がちゃんと用件を満たす請求をしたら、必ず実施する。そして、その結果を尊重しなければいけないという、尊重義務を首長と議会に課します。こうした条例は、もちろん我孫子だけではないですが、まだまだ少数なんです。
こうした住民投票は、わたしは地方自治の大切なルール、根本だと思っています。一般的な地方自治の教科書だと、国は代議制、間接民主制一本ですが、地方自治は直接民主制も、間接民主制の補完として制度化されている、と書いてあるんですが、わたしは違うと思うんですよ。
むしろ、地方自治の土台は直接民主制だと考えます。地方自治は、自分たちの社会のことを自分たちで考えて、自分たちで決める。だけど、それを全部の分野で日常的にやるっていうのは不可能だから、普段は選挙で選んだ市長や議会に意思決定する仕組みにする。でも、いざとなったら、大事なことは市民が決める。市民が「直接」決めるんだ。それが土台だと思うんですよね。その土台だからこそ、市長や議会がおかしければ、首を切ることも、地方自治はできるんですよね。
国民が国会議員の首を切ることはできないけれども、自治体は市長や議員の首を切ったり、議会を解散させたりすることを、市民ができるんですよね。土台は直接民主制だっていうことを、ちゃんと肝に銘じたほうがいい。わたしはそう思って、今までやってきました。
つぎに、市民参加というものがあります。市民参加は、市民の直接決定ではありません。
選挙で選んだ首長や議会が決める過程で、市民がいろいろ意見を言い、首長や議会と大いに議論し、その上で首長や議会が決めていく。それが「市民参加」です。これも、非常に大事です。日常的には市長や議会が決めますから、日常的に「中身のある市民参加」をしていく、ということがとても大事だと思います。
市民参加はね、わたしはあらゆる分野にしていく、とくに「聖域」と考えられているような分野にこそ、市民が介入をしていく必要があると思っています。「聖域」とは何をさすのかの説明はちょっと省きますけれども、例えば我孫子市では、予算編成をオープンでやることにしました。
まず、各課が財政部局に予算要求をします。その段階で、ネットや行政サービスセンターで、「各課がこういう予算要求をしました」ってことを市民にオープンにしちゃうんです。だけど、各課が要求した額を全部足すと組める予算よりもはるかに大きくなりますから、査定をしていく。査定をして、事業をしぼるし、ひとつの事業予算もまたしぼっていくわけです。その査定も査定のたびに公開をする。そして、その都度、パブリックコメントを市民からもらい、市民と議論をしながら、予算を組んでいくようにしました。
これをやるとね、市民からみて、ずっと要望してきたことを担当課はようやく理解して、予算要求してくれたなってわかるんですよ。承知しましたって言いながら、予算要求もしないと、嘘がバレますけどね。予算要求したら、わかるんです。担当課が理解して、予算要求してくれたけど、財政部局が切っちゃったっていうのもわかるんですよ。財政部局も認めたけれど、最後、市長が切りやがった!っていうのもわかるんですよ。だけど、市長が復活させたっていうのも分かる。そうやって、市民と議論しながら予算をつくっていく仕組みを作りました。
それから別の話ですが、いろんな市の事業で、税金を使った事業でも、実施を民間にまかせるってことがあります。わたしは、これは決して悪いことではないと思います。民間の力って、民間の能力って、ものすごく大きいものがあるから、それ自体は悪いことではないです。ただ、今まで行政は、とにかくコストを下げたいから、民間に任せて「安かろう悪かろう」になる、ということがあまりにも多かった。
だから我孫子では、「質」で判断する。この税金を使った事業を「誰」が実施すれば、市民にとっての「質」が一番よくなるか、で判断する。しかも役所の中で勝手に決めるのではなくて、オープンな場所で専門家や市民と一緒に議論して決めるという仕組みをつくりました。それが「提案型公共サービス民営化制度」というものです。
市のやっている事業を全部オープンにします。事業ごとに、これはこういう予算で、こういう人件費かけて、こういう年次計画で、こういう目標をたててやっています、というのをオープンにして、民間からこの事業は我孫子市役所がやるよりも、わたしのNPOがやった方が、わたしの会社がやった方が、わたしの共同組合がやった方が、市役所より市民にとってよりよい質でできますっていう提案をしてもらう。
提案があったら、その分野の専門家と市民と行政で審査をして、本当に市民の利益になると判断できたら民間に移す。今までは、コスト下げたいから、あるいは面倒だからという行政の都合で、行政がやりたくないものを民間に押し付けていた。そうではなくて、民間がやりたいものをちゃんと民間に渡していく。もちろん、市民の利益になるかどうか、きちんと審査した上でですけどね。
言い方を変えれば、市の事業を全部オープンにして、民間の手で奪い取ってもらう制度だと言うふうに言ってました。
わたしは市長のとき、議会に手を突っ込むことはしませんでしたけれども、本当は議会への市民参加が行政への市民参加よりも、もっと大事だと思います。今まで、市民参加というと行政や首長にするものだという理解が市民を含めてありました。もちろん「執行、実行」のところに市民参加することは大事ですよ。でも、その前の重要な「決定」をするのが議会なんですから、その「決定」にちゃんと参加できないといけませんよね。これがとっても大事なんです。
議員はね、我孫子でもそうだったんですが、市長に行政の市民参加が不十分だ!とか、しょっちゅう言います。それはもっともっとやりたいと私自身も思っているし、率直に反省もします。けれども、議会は、なんにも市民参加やってないじゃないって。まずは自分たちやれよ、自分たち市民参加やってなくて、よく人のこと言うねって、わたしは公然と言ってました。
行政のほう、市長のほうにもどりますが、いろんな市民参加の制度を徹底してつくりました。だけど、制度をつくることが大事だとは、一度も思いませんでした。
わたしが一番大事にしてたのは、我孫子市の中で、一番問題があるところに、その問題が一番沸騰しているときに、市長が直接行って、市民ととことん議論することです。これを私は、市長だった12年間やり続けてきたつもりです。
一番問題があるところに、それが一番沸騰しているときに市長が行くとね、「市長よく来てくれました~」とニコニコして、とはなりません。「市長なんでこれはこうなっているんだ!おかしいだろ!」っていう話になる。だけど、「そうですね、そうですね。すいません。ご無理、ごもっともです。」というような対応をわたしは一切しない。市民の言っていることって、根本的にはすごく正しいことを言っていても、いろんな部分が十分に考えられていなかったり、肝心な問題をのぞいていたりっていうのが、たくさんあるんですよ。だからわたしは率直に、皆さんの気持ちはわかるけれど、ここは皆さんがおかしいんじゃないですか?って議論する。そうすると、一番深刻で沸騰しているときですから、大議論になるし、ケンカにもなるんですよ。でも、ここでご無理ごもっともで帰ったら、結局、市民の要望通りになりませんから。あとで10倍に20倍に不信感が増えるんですよ。だから、とことん議論するんです。
ひとつだけ例を出せば、我孫子市は戸建ての住宅地が中心の街です。都市計画上、中層くらいまでは建てられるところも、戸建ての住宅地になっているような街なんですよね。だけど、今の時代、といっても私が市長のときですが、空地ができるとマンション計画がでてくる。高層ではないにしても、中層ぐらいの計画がでてくる。そうすると、せっかくマイホームをつくったのに、マンションで日陰になっちゃうと、大反対運動が起こるんですよ。そういうときに、一番シビアなときに、わたしが行く。そうすると、「市長!ここに、この住宅地にマンション建っていいと思うか?」「市は断固として申請を不許可にしろ!」って住民は要求するんですよね。でも私は、断固としておことわりするんです。
わたしも個人的には、建たないほうがよいと思います。しかし、このマンション計画って、法律も、かなり厳しい我孫子市の開発条例もクリアしてきています。わたしは住民の皆さんに、「行政は普段から、ちゃんと法律や市の条例守ってくださいって、事業者に言っています。なのに、わたしがここに建たないほうがいいって考えたら、法律や条例を吹っ飛ばして、不許可にしていいんですか?」と問います。
普段、事業者に「条例を守れ」って言っておいて、わたしがイヤだと思ったら、条例を無視する。そんな権力者がいる街で、我孫子はいいんですか?って問うんです。普段だったら冷静に考え、そうだねって言ってくれるような市民も、とにかく問題が沸騰しているときですから、「ふざけるな!市長は市民のために仕事するって言ってたじゃないか!」って大げんかになるんですよ。
そのとき、わたしは必ずこう言います。不許可にするってことは、行政権力で民間の活動を規制するってことです。法律や条例は、そういう権力行使の基本になるので、最低限のところをルールで定めています。だから、逆に言えば、法律・条例さえクリアしたらなにしてもいいってことになると、街は無茶苦茶になります。法律・条例をクリアしているのは当然で、そこからは、住民と事業者が話し合い、どう合意をつくるかが問われます。その話し合いに市長や行政も入って真剣にやりますから、一緒に取り組みましょう。こう訴えます。
その合意づくりをする、話し合いをする手続きの条例はまた別につくっているんです。それに従って、とことん話しましょうよ。住民の皆さんも、事業者ととことん話し合ってください。わたしもとことん徹夜してでもつきあうから、話しましょうと。その対話から住民が逃げて、市長に権力行使しろって言ったって、わたしは言うことはききませんって言うんです。
一方では、事業者にも、ものすごく圧力をかけます。全国的に有名な事業者もやってきますが、「あなたの会社は、誰もが知っているような有名ディベロッパーなんだから、ちゃんと住民と話し合ってくださいよ」って言っても、中には「いや、法律も条例もクリアしてるから、私たちは計画を少しも変えるつもりはありません。これで許可してください。」と言ってくることもあるんですね。そうなると、わたしも「そういう会社なんですね、あなたところは。それなら、わたしにも覚悟があります。」と。
正式な許可申請になると、行政手続き法や手続き条例で、一定期間の間に結論を出さないといけませんが、事前協議は期限が決められていません。事前協議って、下水道とか水道とか道路とかいっぱいあって、段ボール何箱も書類が出てくるような協議なんです。
普段は都市部長の決済で、事前協議は了解にするんですが、「あなたの会社がそういう姿勢なら、わたしにも覚悟があるから、都市部長決済ではなくて、事前協議から全部市長決済にします。この段ボール6箱をわたしは一枚一枚丁寧にみていきます。」と。「皆さんもお急ぎでしょうから、わたしも必死になってみていきますが、まぁ、3ヶ月くらいはかかりますかね。」って言うと、事業者は「冗談じゃない!」って。事業者もお金を借りてやっているわけですから、時間がかかるとそれだけ損害が生じます。「じゃ、裁判を起こす!」って言うんですよ。わたしは、「どうぞ、裁判やりましょうよ。最高裁までいくと、何年かかりますかねー。それより、とことん話しませんか。わたしも必死で話すから」と言いました。
わたしは12年間、こういうことを続けてきました。一方、議会とは本当に最後の最後までガチンコでやりました。与党も野党も一切なく、根回し調整もしない。全部、議会とは市民の前で議論しましょうってことでやってきました。だから、掛値なくわたしの唯一の力は市民からの応援、市民の支持でした。でも、わたしは12年間、市民とケンカしながらやってきた。ケンカし続けてきたという実感を持っています。こういう議論を市民とずっとしてきたからです。
わたしは自信をもって言いますけれども、こうしたケンカから、絶対に不信感は生まれません。このケンカからこそ、市民との信頼関係が生まれてきたと思います。
そういうふうに、首長が決めるとき、議会もそうなんですが、市民と議論をしながらやっていくということが大切ではないかなと考えます。
そして今、わたしは民主主義の中身を「進化」させないといけないと思っています。
今までの民主主義は、同じ意見の人たちがそれぞれ集まって、「数の多さ」と「声の大きさ」を競いあった「数の民主主義」でした。そういう数で圧倒しよう、声の大きさで自分たちの主張を通そうとしました。
でも、日本全体が人口減少社会になる、福岡でもそうなっていくのは間違いないと思うんですね。そういうときに、同じ意見の人がそれぞれ集まって、声の大きさと数の多さを競うのではなくて、わたしたちは地域の中で本当に何を選択しないといけないのか、あるいは、どう新しい創造をしていくのか、いろんな意見の人が集まって、みんなで対話をして、合意をつくっていく。その合意で地域を創ることのできる「対話の民主主義」に進化させないといけないと思っています。ただこれ、言うのは簡単ですが、ものすごく難しいと思います。
わたしも、市長時代、市民だっていろんな意見あるんですから、市民同士も他にどんな意見をもっている市民がいるのかちゃんとわかって、みんなで話してもらいたいと考えて、いろいろやってきました。けれども、ものすごくシビアでした。それでも、やってきたつもりですけれども、特にこれからは、それをちゃんとできないといけないと思うんです。
そういうときに、今、無作為抽出で市民を選んで、そこから手を上げてもらった人で、地域の問題やテーマを議論してもらうというやり方が、登場してきました。これは世界的にひろがっているし、日本でもひろがりつつあります。わたしは理論的にというよりも、現実をみていて、とっても有効ではないかと思っています。
こういう無作為抽出の市民で議論する「自分ごと化会議」は、わたしが理事をやっている構想日本というシンクタンクがサポートしているもので、70以上の自治体ですでにやられています。回数としたら、160回くらいをやって、無作為抽出で参加した人は1万人を超えています。そして、ものすごくいい議論をしているんですよ。
市民参加を歴史的に振り返ってみると、大括りに断定しちゃいますが、かつては審議会っていうと、まちの有力者だけ集めてくる。どの審議会にも、自治会連合会の会長と、福祉団体の協議会の会長と、商工会議所の会長と、農協の会長などが名前を連ねる。で、審議する内容にそんなに詳しい人があつまっているわけではないから、行政が何か諮問すると、1回か2回ちょこちょこっと議論して、諮問通りでよろしいっていう答申をする。よくみると、諮問書を書いているのも、答申書を書いているのも、役所の同じ担当職員。市民参加したことにする隠れ蓑だとも言われました。
その後、公募の委員が広がりました。公募の委員はとっても、自分でいろんなことを調べたり、考えたり、いろんな自分の意見をきちんともってますから、すごく議論になるんです。いい議論になる。これはとってもいい成果を生んだと思います。
でも、ちょっと限界も見えてきた。どの会議で公募しても、同じような人しか応募しなくなってきた。ただ、これは行政の責任で乗り越えないといけないんですよ。いろんな人が応募してくれるように。しかし、もう一つ難しいのはね、公募で入る方って、強烈に自分の意見を持っている方なんですよ、ほとんど。なんとしてでも、行政にこれをやらせるために委員になるとか、絶対にこれを阻止するために委員になるとか、そういう方が多くて、10回会議をやっても、公募委員は1回目から10回目まで同じ主張をしている、みたいなことが結構目立つようになりました。
せっかくみんなで議論しているのに、これはもったいないなぁっと思っていたんですね。そこに無作為抽出が出てきた。無作為抽出ったって強制するわけにいかないから、当たった中から手をあげた人なので、関心がある人なんですよ。ただ、理論的にではなく現実になのですが、中心になる人たちはね、強烈に自分の意見をもっているというよりは、この問題に関心があるけれど、もっといろんな情報を得て、いろんな人の意見をきいて、わたしなりに考えてみたいっていう人たちが多くて、だからすごいいい議論がされるんですね。
あの、全国で160回くらいされているといいましたが、基本は行政が主催しています。行政が主催すれば、住民基本台帳からコンピューターで一瞬で無作為抽出できますから。ただ岡山県の新庄村は、村議会が主催をして、議会への村民参加としてやっています。それから、松江市。これ、わたしは実行委員会の共同代表やっているんですが、松江市は市民の実行委員会をつくって、市民が市民を無作為抽出してやっています。
これは、どうするかっていうと、住民基本台帳は行政でないと使えませんが、選挙管理委員会にある有権者名簿は、ちゃんと手続きすると閲覧できるんですよね。だけど、コピーや写真はとれません。だから、閲覧して、松江市の場合、17万人の有権者ですが、17万人の名簿から手作業で35人とびに写すんですよ。それで、2千人を無作為抽出するっていう膨大な作業をやって、無作為抽出した市民に呼びかけて、集まってもらった。わたしこれいつも言うんですが、とっても「いい人」が集まる。
無作為抽出ですから、いろんな年齢の人が来ますが、松江市のときは30代の女性が一番多かったです。行政がやると、どうしても高齢者の男性が多いっていう傾向があるように思うんですが、30代の子育て中の女性が多かったです。
こういう女性もいたんですよ。この方は、少し年配の方なんですが、うちに市民の実行委員会から無作為抽出で当たりましたので、参加しませんかという案内が届いた。その案内を夫のほうが開けたんですって。無作為抽出で当たったのは、妻のほうなんですが。で、夫が妻に、「変な団体から変な案内が来てる。」「お前は、ずっと専業主婦できて、社会のことを知らないから、この会議への参加は無理だなぁ。」って言ったんですって。そしたら妻が返した言葉は「社会の歯車になっているあなたには無理だ。私にはできる!」でした。それで参加してくれて、わたしは心の中で大拍手したんです。
テーマは「原発」にしたんですよ。ちょっと大胆なんですけど。松江って県庁所在地の中で、唯一原発がある市ですからね。原発にしたんです。無作為抽出ですからいろんな人が参加します。わたしは原発やだっていう人も、必要だっていう人もいました。ただ直接自ら、脱原発の活動している人も、原発推進の側で何かをやっているっていう人もいませんでした。
そういう人たちで議論をはじめるんですが、いきなり、普通の市民だけで議論するのも難しいから、まず専門家の話を聴きました。中国電力の原発の責任者も来てくれました。それから、さよなら島根原発ネットワークの共同代表も来てくれました。それから、自然エネルギーに取り組んでいる人も2人来てくれましたけど、ひとりは原発と自然エネルギーで地球を救おうという人、ひとりは自然エネルギーで原発を無くそうという人。それぞれ立場の違う専門家に来てもらって、その話を聴いたうえで、市民が議論したんですね。
ま、それにしても、どんな議論になるかというのは、ちょっと不安でした。けど、ほんとに、とっても面白い、いい意味で面白い議論になったんですよ。脱原発が正しいか、原発推進が正しいか、どっちが正しいかっていう議論ではなかったんです。どっちが正しいかっていう議論なら、専門家が議論した方が深い議論になるかもしれない。だけどね、見事にみんな、「わたしはどんな社会で暮らしたいか」、「エネルギーや原発との関係で、わたしはどんな社会が好きか」っていう自分から出発する議論をしたんですよね。
口火切ったのは、松江に引っ越して来た女性でした。「わたしは松江に住んでみて、原発の周辺に行くと、ものすごく道路も整備されているし、公共施設も立派だし、街路樹も素晴らしい。日本中に原発ができれば、美しい日本になると本気で思っていました。」ということでした。
だけど、東日本大震災のとき、福島原発が爆発したその映像がテレビのニュースで流れた。そのときに東京も危ないっていう情報もはいってきたんですが、息子が大学で東京にいたんですって。それで、息子に電話かけて、明日ではなくて、今すぐ家を出て、松江に帰って来いって言ったんですって。だけど、東京から松江まで、その日のうちに着きませんから、大阪駅まで夫婦で車で迎えにいって、松江に連れ戻した、ということです。だけど、あとで冷静になって考えてみると、原発のない東京から原発のある松江に息子を連れ戻した。「これは果たして正しかったのかどうか?この会議に参加して、もう一度考えてみたい」と話しました。みんな、ほんとに自分のことから始まったんですよ。
この無作為抽出の会議を、構想日本は「自分ごと化会議」と名付けているんですけれど、ほんとにね、自分ごとにみんながしていくんです。
個人経営の事業者の男性からは、「いま原発がとまっていて、地域の経済が冷え切っている。早く再稼働しないと地域が潰れちゃう。もし再稼働しないなら、自然エネルギーで大々的に何かを新しくはじめるとか、何かやらないとダメだと思う」という発言がありました。
それを受けて、それへの反論ではないんですが、女性が「地域経済ももうちょっと長い単位で考えてみましょう」という提案をしました。江戸時代の末期、松江の最大の産業は鯨の油をとる産業だった。行灯の燃料にするために、鯨の脂を採ってたんですね。だけど、明治になって、電気が普及して、当然その鯨の油を採る会社は潰れた。だけど、鯨の会社が潰れたからと言って、いまそれで失業している人はひとりもいませんよね。
そこで、次回は40年後の松江を想定して、議論しようということになりました。会議は4回やったんですが、これが2回目のときで、慌てて、というか、40年後を勝手にみんなが空想してもいけないんで、40年後はどうなっているのか、人口想定も含めて、いろんなデータを急いで集めて、3回目の議論をしました。
こんなふうに、まったくシナリオなしで、議論したんです。提案書は、原発を廃炉にするか再稼働するかっていうところまで踏み込みませんでした。もう少し時間があれば、踏み込めたかもしれないけれど、行政がやるのと違って、ある意味、市民が自分たちで集まって、議論しているだけですから、ここで無理無理結論を出したって、それで行政が動くわけでは、残念ながらないんですよ。だから、もっともっと、市民みんなが自分ごと化して、原発を考えていくためには、どんな情報が必要か?市民はどうすればいいか?行政はどうすればいいか?中国電力はどうすればいいか?というような提言を出したんですね。
だから、再稼働についての結論を出したわけではないんですが、時間をかけて出そうと思ったら、出せたし、いずれにしても、松江市として再稼働をどうするんだ?っていう結論は、出していくんですよね。残念ながら、市民の十分な議論なしに、容認するっていう結論を市はいま出してしまいました。でも本当は、この結論を出すとき、市全体でいろんな立場の人が信頼関係を持って話し合って、そして合意づくりをするっていうのがとっても大事だった、と痛切に思うんですね。
原発に限らずですが、賛成と反対、両端の意見がある。両端ってべつに悪いって意味ではありませんよ、わたしは原発反対で、両端の片方ですから。この両端の意見があるときに、「賛成」「反対」「無関心」の人って3つに分ける傾向が知らず知らずのうちにあるように思います。でもね、もちろん無関心の人はどこにもいるけれど、賛成・反対の両端ではなくて、真ん中の人たちがたくさんいるんですよ。真ん中っていっても、10人いれば、10の立場がありますけど、無関心ではない。いくら考えても、まだ自分としては結論が出せないって言う人もいれば、あえて出さないって人もいるだろうけど、自分なりに考えている人、考えたい人です。こういう真ん中の人たちが中心になって、いろんな話をして、そこに両端の人も加わって、みんなで信頼関係をつくって、議論してくと、社会的な合意ができる可能性があるなって、すごく実感します。
わたしはね、両端の人が話す必要があるってことを、ずっと強調してきました。わたしは脱原発だけれども、脱原発の運動をしている人たちによく辛口の意見を言ったんです。わたしは脱原発を実現したいと思う。実現したいと思ったら、原発推進の人と話さないとしょうがないじゃないですか。いろんな立場の人と話さないと、脱原発ってできませんよね。ところが脱原発運動をやっている人たちは、みんなだって決めつけるつもりはありませんが、わたしが出会った多くの人たちは、脱原発の人たちだけで集まって、「許すなー!」とかやっている。それって、脱原発に繋がらないんじゃないですか?会議、集会にいくと、勇ましいいけれど、脱原発につながらない。もしかしたら、みなさんがやりたいのは、「脱原発」ではなく、「脱原発の運動」ではないですか?脱原発で闘っているって自己満足してませんか?って。
実は、東日本大震災のあと、脱原発と推進側か話す場面もつくられるようになりました。両方が議論する。でもね、やっぱりね、お互いの批判のしあいだったり、平行線だったりとかね、あまり生産的にならない。だけど真ん中の人たちがいろんな角度から話し合い、そこに両端の人を呼んで、しかもそこで信頼関係をつくって話すと新たな展開があると思います。信頼関係って、本当に顔をあわせて話していくとできるんですよ。松江の参加者の中に、中国電力は悪魔だって思っていたけど、少なくとも悪魔ではないことはわかった、っていう感想を述べた人もいました。
本当に、信頼関係をつくって、そこで対話をして、出す結論が、再稼働であれ、廃炉であれ、同じ結論であっても、そういう過程を経た結論であることが大事なのではないでしょうか。両端が闘って、どちらかがどちらかを打ち倒して、「勝利」の結果出した結論ではなくて、本当にお互い信頼関係をもって話し合って、そこで「合意」としてうまれた結論であることが大事ではないでしょうか。
神様ではなく、人間が出す結論ですから、出した結論に、あとでいろいろな問題があることが分かって当たり前です。ここは考えてなかったな、あるいは、新しい事態が出てきたっていうこと、当たり前にあります。そのときに、みんなの信頼関係のもとで出した結論だったら、またみんなで話し合って、みんなで知恵を出し合って、修正していけるんですよ。ところがね、闘った結果、片方が勝利して出した結論だと、あとで問題がわかっても、勝者は問題を認めようとしないことが多い。認めると、今度は自分が敗者になりますからね。
何回も言いますが、みんなで話し合って、みんなで信頼関係をつくって出した結論、そういうね、「修正可能な柔らかい社会決定」というものが、原発の問題に限らず、リスクの少ない安全な社会をつくるのではないか。そして、そういう結論を出せる社会こそ、わたしは風通しのいい社会であり、自治体だというふうに思います。
以上にさせていただきます。のちのディスカッションでまた、みなさんといろんな討議ができるといいと思います。
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